財団設立趣旨
遠く明治の時代にこの地で神奈川県一の学舎「耕餘塾」の初代塾長として数多くの塾生を送り出した小笠原東陽は白石敬子の曽祖父にあたります。「耕餘塾」は明治時代25年続いた中等教育機関で、小笠原東陽は「人間の育成」と「社会のためになる人作り」を教育理念とし明治の近代化に貢献した多数の俊英を世に送り出しました。その果たした功績は計り知れないものがあります。塾生の中には、戦後の名宰相・吉田茂や味の素の創始者・鈴木三郎助など多士済々です。白石敬子はこの藤沢市の誇れる史実をきちんと伝えるために、自身の思いを形にしておきたいと「一般財団法人小笠原東陽顕彰会」を夫白石隆生の賛同を得て、亡くなる直前自身の教育への貢献の思いを実現させるため2018年に設立しました。これを母体として白石記念館を運営・管理することといたしました。
小笠原東陽について
1830年(天保元年)、作州(岡山県)勝山藩士小笠原家の三男として江戸谷中で誕生。3歳で父を失い、姫路藩士奥山家の養子となり、奥山鉄四郎と名乗る。(本名)は董(とう)、字(あざな)は公(こう)威(い)、号(ごう)は半漁(はんりょう)。)
1855年(安政2)、藩主命で幕府直轄の最高学府昌平坂学問所(昌平黌)に入り(26歳)、そこで儒学者の佐藤一斎・安積艮斎(あさかごんさい)に4年間学ぶ。幕末期の思想に大きな影響を与えた人物で、門弟三千人と言われ、東陽は高弟の一人に数えられた。1859年には林家の藕潢塾(ぐうこうじゅく)に移る。1861年(文久元年)、その実力が認められ、姫路藩江戸藩邸学問所の副督学(今の学長代理)に任命された。
1868年(慶応4年)戊辰戦争が始まると、同士20余名とともに藩主に、「姫路藩は徳川と運命を共にすべき」と上申する。しかし、この上申は受け入れられず、同僚の反目を買い孤立し、家禄を返上して藩士を辞すこととなる。この時小笠原の本性に戻し、のちに東陽と名乗った。一時期占いで生計を立てるが、日々の暮らしは大変貧しかった。
1869年(明治2)池上本門寺の南谷檀林(仏教の学問所)で約4年間漢学を教える。檀林の生徒のなかに、藤沢・羽鳥村の三觜治香がおり、その縁で三觜家の人々と縁ができた。
1872年(明治5年)、三觜八郎右衛門(本家)の招聘に応じ羽鳥村に転居。三觜家の多大な支援の下に、廃寺徳昌院で私塾「読書院」を開く。孔子や孟子、水滸伝を面白く講義し生徒が集まる。同年『学制』の施行により生徒たちの多くは公立羽鳥小学校(現明治小学校の前身)に移るが、読書院は私塾として存続し特別(中等)教育を始める。読書院は評判を呼び、生徒が増え狭隘となる。1877年(明治10年)、新塾舎が完成。塾名は「耕餘塾」として発展していった。
1884年(明治17年)春頃より肺結核を発病、1887年(明治20年)8月12日、58歳をもって永眠。東陽の教育の功績に対し、1877年(明治10年)9月神奈川県から表彰され、1883年(明治16年)11月文部省から表彰される。『神奈川県の百人』にも選ばれている。
耕余塾
明治初め藤沢市羽鳥に、『耕餘塾』という神奈川県一の素晴らしい学校があった。塾長・小笠原東陽の教育理念は『人間の育成』で沢山の人が高度な中等教育を受け、日本の近代化に貢献した。日本の終戦後の名宰相吉田茂も5年間学び、政治家となる資質をここでつくりあげた。
『耕餘塾』は、明治5年(1872)に羽鳥村の名主三觜八郎右衛門(本家)が中心となり、漢学者小笠原東陽を招いて、漢学を主体にして始まった。「学制」制定と共に公立小学校ができると、耕餘塾は中等教育の私学として存続された。塾舎も新築され、名称も数回変わった。時代とともに英語はじめ西洋の学問にも力を入れていった。
東陽先生は、明治20年(1887)五十八歳で他界された。その後は、娘婿の松岡利紀先生が、塾長となって新しい教科を加え、先生の数を増やすなど内容の充実がはかられた。吉田茂が学んだのは、この時代でした。
明治30年(1897)、暴風で塾舎が倒壊してしまい閉塾となった。この25年間に「耕餘塾」で学んだ生徒は、千人を超えていた。吉田茂はじめ、「味の素」の鈴木三郎助兄弟、医者で民権家の平野友輔、陸軍大将の山梨半蔵、農学博士の外山亀太郎などのほか、各界の多くの人が学び社会に出て活躍した。
小笠原東陽先生と松岡利紀先生の私学教育に尽くした功績は、不朽のもので藤沢市民の誇りとするものである。この貴重な文化遺産を風化させること無く後世に語り継ぎ、教育の大切さを再認識したいと思っている。