明治初め藤沢市羽鳥に、『耕餘塾』という神奈川県一の素晴らしい学校があった。塾長・小笠原東陽の教育理念は『人間の育成』で沢山の人が高度な中等教育を受け、日本の近代化に貢献した。日本の終戦後の名宰相吉田茂も5年間学び、政治家となる資質をここでつくりあげた。
『耕餘塾』は、明治5年(1872)に羽鳥村の名主三觜八郎右衛門(本家)が中心となり、漢学者小笠原東陽を招いて、漢学を主体にして始まった。「学制」制定と共に公立小学校ができると、耕餘塾は中等教育の私学として存続された。塾舎も新築され、名称も数回変わった。時代とともに英語はじめ西洋の学問にも力を入れていった。
東陽先生は、明治20年(1887)五十八歳で他界された。その後は、娘婿の松岡利紀先生が、塾長となって新しい教科を加え、先生の数を増やすなど内容の充実がはかられた。吉田茂が学んだのは、この時代でした。
明治30年(1897)、暴風で塾舎が倒壊してしまい閉塾となった。この25年間に「耕餘塾」で学んだ生徒は、千人を超えていた。吉田茂はじめ、「味の素」の鈴木三郎助兄弟、医者で民権家の平野友輔、陸軍大将の山梨半蔵、農学博士の外山亀太郎などのほか、各界の多くの人が学び社会に出て活躍した。
小笠原東陽先生と松岡利紀先生の私学教育に尽くした功績は、不朽のもので藤沢市民の誇りとするものである。この貴重な文化遺産を風化させること無く後世に語り継ぎ、教育の大切さを再認識したいと思っている。
松岡利紀について
1844年(弘元元年)、美濃(岐阜県)高須藩士の家に誕生。字は大鋼、号は拙鳩。藩校で漢学を修め、その後江戸の林先生の藕潢塾で漢学を学びます。ここで同門であり師であった東陽先生と出会います。また京都で漢学、名古屋で文学を学んでいます。
1868年(明治元年)、高須藩の貢士(藩から政府に出た人)となり、行政官、刑法官になります。その後あちこちの宮司を務めます。鎌倉宮宮司の時に、東陽先生の長女りかさんと結婚しました。1888年耕餘塾の先生となり、二代塾長になりました。
自ら「源氏物語」「平家物語」などを書き写し、教材としました。閉塾後、中郡立中部学校(金目村堀の内)の教員となります。1907年(明治40年)9月9日64歳で病没されました。